昭和四十一年七月二十五日 朝


本当の信心が出来んでも、神様はおかげを下さる。
 そこに私共が腰掛けてしまったら、信心はそれ迄である、いうなら信心はしだごだでも、やはりおかげは下さる、けれどもそれは、よくよく考えてみるとやはり おかげを下さっておるんです。
 やはり あの信心の無いよりも、なる程色々おかげを下さっておるです、願わんよりも参らんよりも だから良い、なる程 あの一足でもこゝへ足を向けてくりゃ、一足でも無駄にゃさせんと仰るんですから、やはりあの、しだごだの信心にでも 矢張りおかげは頂く、よくよく しかし考えるとおかげも矢張りしだごだである。
 確かにそうなんです、ですから、ひとつおかげを頂かしてもろうてですたい、ね、本当に改まるべきは改まらせてもろうてから、ねその信心の実績というか、そういう様なものが出けて頂くおかげだったら、それはその間違いの無い、いわばそれに信心につり合うたそのおかげが段々、こう垢抜けしていくというか、大きくなっていくというか、美しゅうなっていくというか、そういう風におかげがそういう風な進展をしてくるところのおかげを、頂かなければいけん、又そこに楽しみを持っての信心であり、改まりがなからなきゃならん、ところがどうも、お互い私共の場合はもう兎に角、もうどうやらこうやら、おかげ下さるもんじゃから、だからそれではどうしてもその、いわゆる、どうやらこうやらの信心では、どうやらこうやらの信心で一生 例えばうだちのあがらんおかげに、終ってしまわなきゃならん。
 私 昨夜も皆さんに申しました事ですけれども、兎に角信心に一番大切なのは、辛抱でございます、と仰るんでございますからね、信心をさして頂くのに、一番大事なのは辛抱だと、だから あらゆる意味合いにおいてです、やはり辛抱し抜かなけりゃいけん、例えて申しますなら、私共がこうやって、ま午前中奉仕さして頂きますまあ矢張り、はまらにゃ出来ません、一生懸命ならにゃやっぱ出来ません、だから一生懸命なっとりますから、おかげで、ま、どうやらこうやら出来ます。
 もう、例えばこゝ幾日か、もう御祈念終りますと汗がジツクリです、私はですから、皆さん こゝでお取次終ってから一辺あちらへ下がって汗でも拭いて、下着でも着替えてから というたんじゃですね、不思議に有難くなられんから不思議です。
 やはりそこをですね、辛抱し抜かして頂きよりますとです、もう下はジックリ つまゝにゃならんごつなっとる、下着はベタベタですから、又そのそれこそ熱いごたる汗が、背中を流れておるのを自分で感じるんです。
 ところが、その頃から有難うなってくるんですよ、不思議にその有難さが、私が一日、私の一日を支えてくれる、いや本当に厳密に云うたら、椛目に御神縁を頂いておる方達のおかげを、それが支えておると言った様な感じが致します ね、ですからあの辛抱という事はですね、あのう そういう様な意味合いにも いえるんですよね、斯だとこう自分で心に、定めさして頂いた事を、だからそこのところを本気で、その気にならせて頂きますとです、その後から確かにありがたいものが頂けける、なる程信心には辛抱する事が、一番大切でございますと仰る。
 それなんです、どんなにパ-ッとこう桜の花の様な信心が出来ましても、それが辛抱し抜かれない「      」の様な信心になれないところにです、私はお徳が、なる程受けられんのはそれだとこう思います。
 二、三日前でしたか、堤清さんがこゝでお届けされるんですよ、先生、この腕が痛うして上がりません、どうぞお願いを お願いして下さいと云われると同時にです、私は考えました。
 もう本当に 今朝の御理解じゃないですけれども、その時の堤さんの云われる事です。
 私の信心が、いっちょん腕が上がりまっせんもんじゃから、とこう云われるんです、清さん、それに気付かせて頂いて、ね、そうどこじゃないと自分が思い、そこに精進するなら、すぐおかげ頂くでしょうね、と云うて申しました。
 神様は確かに、それは声ない声をもって、ね、腕が上がらん事を指摘をしておられる事だけは間違いないですよ、ですから 私共はその気になっておっとです。
 矢張り神様がその指摘して下さって、そこんところを おかげ下さるんですよ、ねえ だからそこんところをですね、例えば本当、いや腕が上がらん、いや自分がこのくらいな事ひとつ辛抱が出来ないのに、このくらいな事すら改まりが出来ないんだもん、と例えばそれに、んならその思うておるだけでは駄目
 そこで私が今申します様に、辛抱し抜かせて頂く、その後に生れてくる、湧いてくる頂けれるところの有難さ というものをです、ね、その有難さをもってするならば出来ん事はない。
 有難さを以て実行していったら、「」信心を ね、有難さを以て改まっていったら、私は出来なかった改まりが、出けていく、信心は日々の改まりが大事と、大きなという意味じゃなくても、日々の改まりを第一にして行かなければならん。
 私共が信心さして頂いてから、おかげを受けると、なる程信心しよりゃおかげを受けます、しだごだの様な信心でん やはりしだごだなあの、おかげがやっぱり現われるものですから、それに大概なひとが腰掛けてしまうんです。
 自分の信心が腕の上がるという事をはなに上げ、いやそのまゝにする、ね、自分の信心の腕の上がらない、そこに 例えば椛目の人達はです ね 気付いておる人は多かろうと思う。はあ-これじゃおかげの頂ける筈はないもん、これじゃ本当のおかげになってくる筈はないもんという事を、椛目の人は大体気付いておるだろうと思う、銘々が それが出来ていないというのが、私は真相ではなかろうかと思う。
 何が足りんのか、と、信心辛抱が足りんのだと 本当の信心辛抱し抜かせて頂くと、その後から、例えば私が今感じます様に、ね、申しております様にね、私がこゝへ七時間なら七時間、奉仕を毎日さしてもらう、背中はダラダラ汗が流れる、だから一辺立って下着でも着替えて、水どん掛ってから、そして又奉仕したんではです、不思議に、気持ちはサッパリ致しましょうけれども、有難いものは頂かれない、不愉快ですけれどもやっぱり、その下着をジックリなりながらもです、そこを辛抱し抜かして頂きよるとです、何時の間にか私の心ん中に、背中を伝う熱い様な汗を感じながらもです、有難いものを感ずる事が出来る、と、そして人なら こゝに十二時に交替する時には、もう替ろうごつないごたる気持ちが起きて参ります、こりゃ本当です。
 早よ誰か替わり来てくれりゃえゝが、そげな気持ちはもう替る頃には、消える様な気がするんです、けれども始めの間は、やっぱ辛いですけれども、そこ辛抱し抜かせして頂きよるとです。
 やはり神信心には、辛抱する事が一番大切でございます。
金光様は そこんところを体験された大ベテランだと、私は思うですね、三代金光様は仰っておられる。神信心には辛抱するという事が、一番大切でございます。
 その一番大切なところを、大切にさせて頂くところからです、この辛い中に 外から見たらです、ほんにじつない事じゃろと、紋付袴付けてから、こん暑か間七時間も座っとらっしゃらにゃんという事は、ほんにじつない事じゃろうと、まあ 云う事見えるだろうけれどもです ね、その 私の心ん中に頂くものは有難いだけ、けれども、始めから有難い事はないという事、そこを辛抱し抜かして頂きよる間に、何時の間にか有難うなってくるんだと、その有難いが椛目の皆さんの信心を、いや私の信心を、又 私の一日を支えてくれると、その有難いがないから、私は何時までもしだごたの信心に終ってしまうのではなかろうか、改まるべきところが改まられんのではなかろうか、それでは矢張りしだごだ信心、しだごだでは矢張りおかげを受けておる。
 なる程広大なおかげと こう思います、けれども後でよくよく考えて見るとです、なる程広大なおかげに間違いは無いのだけれどもです ね、それが真のおかげになっていないというなら、しだごだのおかげであるという事。
 しだごだなおかげが一生続いたんでは、皆さん つまらんでしょうが、ね、こゝぞというところは、やっぱり辛抱し抜かして頂いてその後に頂けれるところの、有難さというものを楽しみにその修行が、なされていかなきゃいけないと思うですね。    どうぞ。